八丁湖は行った事がないから行かないとな。とぼんやりとしていたら、ローカリーナちゃんがこんなツイートを流していたの。と言う事で行ってきました。もう何だかんだで結構時間が経過をしています。
【土日開催】
今日から3日間開催する #吉見観音 #ライトアップ に行ってきた!あまり紅葉してなくて、これから見頃を迎える感じ!少し色が変わった #紅葉 と観音様のコラボは圧巻!
あまりの迫力だったので、今度は日中拝みに行きたいと思うほどよかったのでおすすめ!https://t.co/3q35AdrvMW pic.twitter.com/mImBnQzGe4
— ローカリーナ@比企東松山の情報サイト (@localiina) 2018年11月16日
取りあえず吉見観音安楽寺から
ここは、もうすでに行った事がありますね。良い所です。源範頼と言う知っている人は知っている。知らない人は知らない。源頼朝の義経以外のもう一人の弟が子供の頃に匿われていた。と言われている場所で、後年の範頼は、この近くの息障院と言うのがありますが、そこに住んでいたそうです。
と言う話を結構信じていたのですが、かなり伝説的な感じで実際は怪しい。と言う事を今知りました。
伝説
石戸蒲ザクラ
範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。
鎌倉幕府は比企一族のバックアップで成立している部分も大きいのですが、その比企一族は滅亡しているので、情報がかなり乏しいのですよね。残念ですね。甥っ子の頼家の嫁は東松山で良いのかな?逃げ込んで、尼になって、尼寺作ったのは、多分本当。
その辺りについては、以下を見て頂ければと思います。
吉見観音のライトアップ
次は八丁湖だ!
歩いて行ける距離なのですが、あとがきで多いに吉見に対する憎しみを書きたいと思いますが、膝を負傷しておりまして、近い距離でも山道だったので、結構きつかったです。そして使っているカメラの質だと思いたいのですが、全然ちゃんと撮影を出来ていませんので、自分の目で見に行って下さい。
フランクフルト2本、コーヒー、豚汁。全部で500円位だったと思います。安いね。公式サイトは以下になります。
あとがき
自宅から安楽寺まで歩いて40分。と出ましたので、歩くエイトマンと自称している私なら30分位だろう。と言う事で、歩いて吉見観音まで行ってみました。途中までは頗る順調で、予定通りに30分位で到着をする。と言う所まで行ったのですが、流石吉見。暗い。そして道に意味不明のコンクリートが置かれており、それに躓いてしまい、左膝を負傷してしまいました。1週間はまともに歩けない状態が続き、ある程度は違和感なく歩けるようになったタイミングで風邪を引いてしまい、2週間程度。自宅で静養を余儀なくされました。
吉見に知人は少ないですし、今も住んでいるのか不明なのですが、吉見中学校で生徒会長をやっていたはずの、吉沢君は僕に吉見を代表して謝罪をして下さい。仏様に会いに行ったのに、散々な目に遭いました。行きは30分位で到着をしたのに、帰りは1時間半位掛かりました。途中で座り込んでいる意味不明のおっさんを見た。と言う人、あれは私です。不審者ですみません。
右膝はとっくに半月板損傷をしていて、左右の指も骨折経験ありで、今回めでたく左膝を負傷してしまいましたので、これにして全ての箇所の損傷経験ありになりました。もう少し年齢を重ねていけば、全てが吹き飛ぶ形になってくると思いますので、老後を迎えたくないでござる。と言う状況です。何も悪い事をしていないのですが、吉沢君は俺に謝罪してくれ。もう二度と夜に吉見は行かないぜ!と言う気持ちです。
でも、近いうちに行く予定だった、横穴墓の場所も暗くて全く見えないながらも、場所の確認は出来たりしましたね。そのうちに行きたいと思います。
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