親譲りの視力の悪さで、子供の頃から損ばかりしている。中年の時分歩いていたらヘルニアになった。勢いだけで松山にいくなんて、なぜそんなむやみな事をした?と聞く人がおるかもしれん。別段深い理由でもない。ゲームで知り合った方が四国松山に住んでいて、行くわ。と言ったから、行っただけである。
と言う事で、月曜日にもう行くしかねー!チェックアウトは金曜日にしておいて、あれ?帰りのバスが取れないぞなもし?まー、なんとかなるでしょう!おれが居れば何とかなる。今までも何とかしてきた。きっと今度も何とかなる。と言う勢いで一度は乗って見たかった深夜高速バスを使って、四国松山まで行ってぞなもし。
軽く坊っちゃんに触れておこう
四国松山の人であれば、どうも部分的に学校の教科書でも登場をしているみたいです。簡単にあらすじを書いておくと、江戸っ子設定になっている坊っちゃんが、物理学の学校を卒業した後に、校長の勧めで四国松山の学校に赴任をして、そこで教師生活を送る上で、生徒からからかわれて、激怒をしたり、同僚の赤シャツの行為を見逃せない!と最終的には成敗をする話となります。物凄く端折って書いてしまいましたが、四国松山の方々の間では、松山の悪口が多い。と意外と評判が宜しくないみたいです。
実際に読んでみたのですが、そもそも昔の話だし、この程度で悪口なんて言われた日には、埼玉県なんて、どうするんだよ?埼玉県の東松山の中でさえ、ヒエラルキーがあって、吾輩が住んでいる場所はチベットと呼ばれているんだぜ。東松山はの件はあとにして、あんまり埼玉県の事を悪く言うの良くないぞ。埼玉県が馬鹿にされているなら、俺たちはどうなるんだよ?と群馬県と茨城県がビビッて震えますからね。
坊っちゃんのモデル
もう、上にも書いてありますが、東松山在住になりますが、高校は熊谷の高校と書いてきましたが、熊谷高校卒になります。なので、元々話としては聞いていましたが、坊っちゃんのモデルの人格的な部分のベースとなっているのは、旧制熊谷中学でも教鞭を取っていた、弘中又一さんになります。
弘中又一 | 熊谷デジタルミュージアム
見ての通り、本人自体は江戸っ子でも何でもないので、松山の事を卑下している部分については、夏目漱石の主観だったのではないでしょうかね?あまり知られていない話ですが、熊谷には、弘中又一さんは、ここに住んでいましたよ。坊っちゃんのモデルの方ですよ。とプレートが申し訳ない程度に、当時住んでいた住所に貼られています。
因縁の相手、松山
松山は東松山市民にとっては、因縁の相手である。元々、東松山は武州松山で、駅が最初に出来た時点でも、松山と言う地名でしたが、偉い大人の人達の事情でしょう。同じ市町村名があるのは宜しくない。とかになったのではないでしょうか?四国松山の方が坊っちゃんでも有名だし、お前、東にあるから、東を付けておけ。と言う事で、東松山になった。と推測をしています。許せない!
と言う事で、四国松山に高速バスを使っていきましょう!
日や曜日、タイミングによって金額は違いますが、サイトを見ていたら、安いのがトイレ付きで、3列の独立タイプだったのですが、それが学割価格となっていて、ふん!騙された!となりまして、もう何が何でも一番安いやつで行ってやる!となりまして、お値段、6,840円となりまして、普通に4人列のトイレのないバスになりました。
トイレ位は付いているだろうと思っていたので、乗り込んでないのが分かった瞬間に、走る緊張感。ヒリヒリしましたね。途中でサービスエリアで止まったり、何とか少し位は眠る事も出来て、午前の9時過ぎ位に無事に愛媛県JR松山駅の近く。ホテルカジワラ前に到着となりました。ちなみに、そのままホテルカジワラに宿泊をする事にしていたので、荷物だけ預かって貰い、さー!行こう!となりました。
観光として回ったのは、この日を含めて3日間となりますが、全部を同じページに掲載をすると、画像数が、とんでもない事になりますので、ページを分けていきたいと思います。
何はともあれ、JR松山駅でも見ておくか?観光案内とかあるだろう?と思って向かってみたのですが、何これ?(´・ω・`) しょぼ過ぎない?え?あれ?となりましたて、うーむ。。熊谷の勝ち!とか自分の頭の中で思ったりしました。
ま、気を取りなおして、美術館巡りとかをスタート!と言う事で、上の画像の途中に、県立美術館にすでに寄っています。作品の撮影が禁止だったのと、美術館自体の建物自体は、普通のコンクリートでしたので、特に感想もなかったのですが、三輪田米山の作品が展示をされていて、そちらはしっかりと見る事が出来ました。
ちなみに、この時は杉浦非水さん推しとなっていました。なまじ書道を続けていて、一向に自分自身の腕前は上がりませんが、見る目だけは付いてしまったので、豪快さに見入ってしまいました。良いものが見れましたね。
銀天街に行ってみたよ(その後に大街道)
ホテルカジワラにあったパンフレットとかを見たり、愛媛県松山の観光局のサイトとかを見ると、大街道と言うのも、見どころの一つらしいんですよね。でも、その前に銀天街と言う商店街もあるし、松山市駅と言う駅もありましたので、ちょっと寄ってみるぞな。と言う事で、ちょっと寄り道。
取りあえずですね。床屋によって、髭剃りをしてもらって、そのままシャンプーもして貰いました。びびったのが、こちらの駅前の方が断然栄えているんですよね。高島屋が直結をしていて、近くには三越デパート。もちろん、一切の用事がありませんので、寄ることはなかったのですが、この時に、坊っちゃん広場ってどこですか?と質問をさせて頂いた女性と翌日にも遭遇。まー、代理店で働いている女性なんですけれどね。帰りのバスの手配であるかどうか?を質問しに行った時に、あれ?となりまして、昨日、坊っちゃん広場を教えて頂いた方ですか?と聞いたら、あ!やっぱりそうですよね!となりました。別にそれ以上の話はないです。
他には、銀天街から大街道へ行くのに、大街道はこっちですか?と知らない人に質問をさせて貰ったら、その方は一週間に引っ越してきたばかりで、私も分からないんです。と必死でグーグルマップを見ながら、歩いていました。あー、それなら大丈夫です!ありがとうございます!と伝えていたのですが、向かう先は同じとなっていたので、質問をさせて頂いていた方が寄ってきて、あちらです!と教えて頂きました。なんちゅうー親切な人なんだろう。と思いましたね。
銀天街と大街道の感想?別に特に何も。。。
普通に松山の方々のショッピングアーケード街でした。一応は観光向け的なのもありましたが、生ものを買う訳にも行かないですからね。
坂の上の雲ミュージアム
はい。司馬遼太郎先生の作品ですね。司馬遼太郎作品の中では、一番好き!と言う方もいるかもしれませんが、実は私自身は歴史小説には、ほとんど興味がなくてですね。これは決して批判ではなく、むしろプロとしての称賛なのですが、時代が安定をして我慢すれば良い時代には、徳川家康。混沌としている時には坂本龍馬。時代にマッチさせた作品を世の中に出した。と言うイメージが強くて、あんまり興味が持てない作家さんになるのですが、実在した秋山兄弟には興味がありますし、正岡子規にも興味があります。
この辺りについては、最後に統一教会についてぶち切れる。と言う謎の終わり方をした、江川達也の『日露戦争物語』がきっかけとなりますが、作品としては、ラストシーンでは、前述をした終わり方となるのですが、その前に日清戦争で作品は終わります。え?と衝撃を受けるでしょう?
取りあえず、充実をした展示品となっていましたので、私のように、別段、司馬遼太郎先生には興味がないです。と言う人でも楽しめる内容となっていました。基本的には、中の展示品については撮影NGとなりますので、撮影は少な目となっていますが、展示品は多目です。
秋山兄弟、生誕地
さー!秋山兄弟の生誕地です。もちろん、改装をされたものとなりまして、当時を知っている人から色々と話を聞いて、建築をした物件になるみたいですが、下に掲載をしている井戸などについては、当時のままみたいです。
馬に乗っているのが、兄貴で弟が海軍参謀で、東郷平八郎と一緒にロシアのバルチック艦隊を打ち破った秋山真之です。
司馬遼太郎の考えだと、日露戦争までの日本は良かったけれど、その後にダメになった。と言う考え方になるのかな?と思いますが、うーん。どうなんでしょうね。この当時は戦っている戦場となっている場面が面積としては少ないですから、陸軍も海軍と協力をしやすかったと思いますが、第二次世界大戦では、戦場が広がり過ぎて、海軍では兵站を確保出来なかった。
加えて、日本海でのバルチック艦隊での殲滅ですが、当然ながら、実際には当時の心境としては蓋を空けてみるまでは分からない。と言うヒリヒリはあったのでしょうが、燃料の事を考えると、バルチック艦隊は必ず日本海を通らざるをえなかった。と考えられるので、必然だったと思うんですよね。当時の参謀部も、それで一致をしていたのでしょうが、実際に来るまでは冷や冷や物だったでしょうし、悪天候のせいで、予定よりもバルチック艦隊が遅れていたみたいで、あれ?となっていたみたいですね。
もしも、ロシア側が捨てられるものは極力捨てて、取りあえず、バルチック艦隊の箱だけを残す位の勢いで、燃料の節約をして、太平洋側からロシアに入っていたら、日本は負けていたでしょうね。
ちなみに、銅像の兄弟は向かい合っています。実際に日露戦争も、手打ちと言う形で完全勝利とかではなく、負ける事なく終わらせる事が出来た戦争。と言うのが実態だったのではないかな?と思います。
萬翠荘(旧久松家別邸)
ここは女性がいく所ですかね。ソロ活動の男性の姿を見かける事はありませんでした。この後にも登場をしてくる、愚陀仏庵の模型が何故かありました。
恐らくは、全国色々な場所にある、大正ロマン時代辺りに作られた西洋風のでかい建物。と言う形です。昭和天皇も宿泊をして、食事をした部屋なども残されていますが、もう考えてみたら、昭和天皇崩御の時の事を知らない大人も増えているんでしょうね。ギリギリ記憶がある年齢でしたが、何だか鎮痛な雰囲気になっていましたね。私自身は子供だったのと、当時はアメリカに住んでいてNHKで流れていたので、よく分からないけれど、大変な事が起きたらしい。と言う事を薄っすらと記憶に残っています。
何だかドラマや映画でも使われた部屋となっているみたいです。でも、そのドラマも映画もみた事がないから、なんとも言えねー。と言う気持ちでした。
松山城は凄いぜよ!
メインでしょうね。人によってはメインは違うかもしれませんが、私自身としては、今回の松山ぶらり旅で、絶対に行っておかないと噓だろ?と思えるハイライトですが、これ、結論として言えば、ちょっとしくじった点がありました。それは後述します。
まずは、ロープウェイ通りと言われている場所を通っていくのですが、それを下に掲載をしておきます。写真は少ないです。そして地味に歩きます。
松山城へ向かうロープウェイ通り
もっとこうね、愛媛県と言ったら、みかんじゃないですか?グイグイと、みかんで攻めてくると思っていたのですが、そこまでではなかったのですが、ロープウェイ通りに、唐突と割としっかりとした観光案内所がありまして、そこで、みかんだぞ!と言うのを味合わせて頂きましたね。で、ロープウェイの入り口には、上の写真で言えば、坊っちゃんの記念と銅像が立っています。何で、銅像を撮影をしなかったのか?それについては、自分自身でも良く覚えていないです。
一旦、松山城に話を戻しましょう
松山城ですが、ロープウェイで途中まで上りました。そこそこ登ったので、もうゴールでしょう?と思っていたのですが、スタートでした。結構歩きます。そしてもちろん、店内の展示物は撮影不可が多いので、撮影をしていませんが、見どころも満載でした。
天守閣に登る階段の下は米を収納する蔵となっていて、実際には、ほぼ使われていないままだったみたいです。だって、戦争にならないんだもん。平和が続いて、もう天守閣行く必要もなくない?みたいな形にどこかのタイミングでなったのでしょうね。
建築を始めたのは、加藤嘉明となるのですが、完成まで時間がかかり過ぎて、途中で死んでしまいました。残念だったでしょうね。
入り口にある桜と竹も立派なものでした。是非とも松山に来たら、押さえておいて貰いたいですね。
松山城二ノ丸史跡庭園
これは結論、時期を選びます。私自身がミスったので、書いておきますが、行くなら、松山城の前に行くのがオススメです。と言うのも、松山城のロープウェイの往復のチケットを買ってしまったのですが、写真の中に、松山城が見える写真があると思いますが、そこから降りてきて、またロープウェイに乗る為に登ったのですが、これで体力を使い切りました。そこそこの山道を歩いて往復で30分ぐらい。今日は初日で、12時間かけてバスで移動をしている状態。体力の限界です!
ちなみに、自分自身でも撮影をしてみたのですが、イマイチだったので、他の方の撮影の水琴窟の動画を掲載しておきます。
松山城と、こちらの庭園に行きたいのであれば、まずは庭園を先にいき、そこから松山城にいきましょう!これは本当に失敗しました!
これだけでは分かり辛いと思いますが、もう普通に松山城のロープウェイ乗り場に戻るのに、登りましたからね。なので、上の方で掲載をしているアイスクリームを食べているのは、順番的には、松山城を見る→庭園を眺めて水琴窟を聞いて、がいやなー!!となって、戻って、体力切れになり、補充をする為に食べました。
この日の夜はハイジで食べました
取りあえず、観光は切り上げて、さて、帰りのバス。予約取れるかな?と思いましてね、バス会社とかに行ったりしたのですが、ないんだって。ふーん。。まー、まだ焦る時間じゃない。どうせキャンセルが出るでしょう。出なかったら?金曜日チェックアウト予定になりますので、木曜日の夜にキャンセルが出て居なかった時に、真剣に考えましょう。
と言う事で、飯だ飯!で、JR松山駅前のハイジに行きました。
お店の前では、アルプスの少女ハイジが掛かっていたのですが、店内では、長渕剛の『俺らの家まで』と、マーシーの『チェインギャング』が掛かっていました。
自動再生だと思いますが、選曲が渋過ぎでしょう。他にも小泉今日子が流れていたのですが、曲名は不明でした。
明日行く場所を選びながら、なんとなしにテレビを付けていたら、ニュース番組で、歩いて目の前を通ったホテルが廃業。と言うニュースが流れていて、あれま!となりました。大変だねー。と考えながら、翌日の天気が午前は雨で午後は晴れ。と言う事を考慮しながら、行き先を考えていました。
ちなみに、もう路面電車の使い方は、この日のうちに手の内に入れました。
偶然でしょうが、すげー、みかんを推してくる、みかん電車に乗れてテンションが上がりました。これ、おらが村で行ったら、やきとり電車でしょう?凄く自分だったら嫌だと思いました。
取りあえず、一万歩だったみたいですが、上述をしているように、松山城の下りと登りが、肉体的にはきつかったですね。
2日目に続きます。ページが出来たら、下に順番に掲載をしていきます。
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